東日本大震災からもうすぐで9年が過ぎます。被災地の皆さまが今まで通りの生活を取り戻せるよう、一刻も早い復興を、心よりお祈り申し上げます。忘れてはならない2011年3月11日の東日本大震災を振り返り報告させていただきます。

当時私は呉医療センター第3次救命救急センターに勤務しており、呉医療センターDMAT(災害派遣医療チーム)に所属しておりました。
発災当日3月11日から3月15日までの活動報告をさせていただきます。
2011年3月11日、14時46分宮城県三陸沖を震源とする震度7(M9)の地震が発生し、DMAT隊員へ厚生労働省DMAT事務局から待機命令がありました。17時17分宮城県・福島県から全国のDMATに派遣要請があり、19時40分病院長の決定によりDMATチームの派遣が決定となりました。21時10分海上自衛隊輸送艦、くにさきを移動手段とし、広島大学病院、県立広島病院、呉医療センター、JA広島総合病院のDMATがくにさきに乗艦し、JA広島総合病院以外は病院車両も搭載し、22時50分に呉港を出港しました。
自衛隊による支援物資も搭載されておりました。 3月12日、12時46分 JA広島総合病院のDMATが、徳島から要請された海上自衛隊のヘリで厚木基地へ移動となりました。
その後、仙台に入り仙台医療センターで活動されました。
3月13日、6時30分乗艦して約30時間後、横須賀港に到着しました。
横須賀から広島大学病院とともに、海上自衛隊の先導にて、仙台方面へ移動開始することになりました。 県立広島病院は、仙台医療センターに移動されました。車で東北道移動中 9時00分福島原発の事故に伴い、広島大学緊急被ばく医療推進センターの指示で福島空港に移動しました。11時30分福島空港から福島駐屯地に集合場所変更の連絡がありましたが、その後、確認が取れず福島県統括DMATの承諾を得て福島県立医大病院に移動することに決定しました。
14時30分福島医大病院に到着し、統括DMATとミーティングの後、二本松男女共生センターにて被ばく対応の指示を受けました。福島医大病院では多数のDMATが参集していました。
14時45分 被ばく対応の指示を受け、二本松男女共生センターへ移動開始しましたが、途中地震により 被害を受けた、家屋崩壊、土砂崩れ、道路の亀裂、陥没等により移動時間を要しました。
二本松男女共生センターに到着すると、自衛隊が設置した、除染テントがありました。
現場到着後、新潟市民病院、愛媛大学病院、福井県立病院のDMATから活動内容について説明をうけ、引き継ぎをしました。 タイベックススーツ、手術着着用にて活動を開始しました。
二本松男女共生センターの建物内には、福島第一原子力発電所半径10km以内の浪江町及び双葉町の病院にて 被ばくの可能性がある患者約120名、患者を搬送して来た病院の医師、看護師、県より派遣された保健所の職員、計170名が収容されていました。 帰宅可能な方、違う非難場所へ移動される方に対しサーベイを施行し、汚染がある方には、自衛隊により除染が行われました。
屋外では、ご自身で被ばくの可能性の疑いがあると心配されている住民約100名と、老健施設の患者、消防、救急隊、警察、救護班等の職員約200名に対しサーベイを行いました。
活動中、センター内には救急搬送が必要な重症者が9名程度存在することが判明し、輸液確保、挿管等を行い、汚染があった患者には 除染を行い、直接近隣の病院へ交渉し病院への搬送を行いました。
センター内の被災者に対し、必要な医療資器材、医薬品、非常食を提供しました。
3月14日、10時10分福島医大病院で本部業務を行いました。
広島大学DMATはドクターヘリの運航調整業務を行われました。
呉医療センターDMATは16時05分に撤収としました。
帰路中、自衛隊車両、民間車両が被災地へ救援物資を輸送していました。
3月15日、帰院時サーベイを施行され、汚染されていないことを確認していただき、その後記者会見し、DMAT解散となりました。
今回DMATの特徴の一つでもある重症患者への救急医療の対応力は発揮されませんでした。今後の課題として、<従来の災害と異なり、重症患者用以外の資機材が必要であった><原発災害時の情報公開の在り方や広域災害時に連絡体制をどのように構築するのか>
この2点が挙げられます。
今回の派遣で浮き彫りとなった課題を整理して、今後の災害医療活動へ生かせればと考えます。

                  文責 中前外科内科クリニック院長 中前尚久